「ラムネみたいに甘い毒で死ねたら楽なのにねぇ」
そんなことを忽如と言って恭はぺたりと底冷えした床の上に崩れるように寝転がった。
苦しいよ痛いよ、とうわごとのように呟きながらタラタラと腕や手首から血を流す。制服が汚れるにも構わずに。
深い等間隔の呼吸は昏睡一歩手前みたいにゆったりとしていて、身動ぎせず目を見開いて天井を見上げている姿はまるで死体だ。
ならば。横たわる恭という死体を俯瞰で見ている夜一は第一発見者か?
第一発見者は冷めた目で「観察」している。
空気に触れて中途半端に固まった静脈血が滑稽だった。
こんにゃくゼリー? そんな美味いもんじゃない。例え喉に詰まらせて凶器になりうるものだとしても。
この有様だと不味く血生臭い寒天の間違いだろう。
……笑いごと。人に生を与える血潮も一歩体外へ出れば無様なものだ。
蚯蚓のように腕を這い、明後日の方向に滑ったカッターナイフが血の線を描く。
フローリングに広がっていく小さな血溜まりを眺める。
きっと片付けるのは俺なんだろう。
ちゃんと片付けないと寮長が煩いし、なんせ二人部屋では狭くて布団すら引けない。
血染めの布団なんてまっぴらごめんだ。
夜一は嘆息を吐きつつ、窓から差し込む僅かな月明かりに濡れてぼうと光る恭の白い頬を撫でた。
「甘い匂いがする毒性物質なら知っている」
「なんていうの?」
「B2H6だったか。ジボラン? 本当に甘いかは知らない」
「ふうん」
「滅多にお目にかかれない薬品だろうよ」
「……なぁんだ」
深海を宿した青い瞳からは涙が時折伝い落ちて、それは窓ガラスを流れる雨粒に似ていた。
雨粒にしては澄みすぎか。都会の雨は汚水と変わりないくらい汚れている。ミネラルウォーターみたいな涙。
カルキ漬けプールも酸性雨も恭に触れたら全部飲用可能な天然水になるかもしれない。きっと前世は浄水器。
綺麗だ、と素直に思って、触れてみたくて手を伸ばした。
生ぬるい涙の滴を指にすくい結露した窓に絵を描くよう頬、瞼、髪、肩となぞる。
そして夜一の指が恭の傷口に辿り着いた。
長い指を恭の細い手首に絡ませ、伸び気味な爪でトマトの薄い皮を突き破って果肉を抉るよう真新しい傷口に触れた。
指から手の平、手首、夜一の手も恭に侵食されていく。意識視覚触覚、とくに血の匂いは強く感覚を焼いていく。
神経を掠りでもしたのか恭の体がビクンと痙攣して眉間に皺が寄った。
恭の潤んだ瞳は水面のようだ。小波が一つ立ち、夜一の嬉々とした表情が映り込んだ。
「痛い止めて夜一」
「嫌だ。俺、お前の痛がってる顔が好きみたいだ」
同い年の癖に幼い顔で泣いて痛がる彼の顔は、夜一にとって興奮剤以外の何物でもなく。
恭の痛みは夜一自身の快感と同義らしい。サディスト? どうとでも言え。パラフィリアだったって構わない。
彼が毎度のこと死にたがる原因なんて二の次三の次だった。
恭は目一杯顔を顰めて恨めしげに罵る。
「ばかばか痛い、よっちゃんのばか、なんかきもいよ、きもいじゃなくて気持ち悪いっ、かな」
「よっちゃん言うな俺は駄菓子か?イカか? 俺からすればよっぽどお前の方が気持ち悪い」
「よっちゃんばかにすんなっ、安いし美味しいじゃない「黙れ。どうでもいい」
惰性で掛けている度の合っていない黒縁の眼鏡を放り投げると、奇しくも恭が愛用しているカッターナイフと同じ方向に転がってった。
かしゃり、レンズに血が跳ねる。
夜一の瞳は夜空のような蒼を宿して恭を射抜く。深海よりも果てを知っている遠い瞳。
夜空に赤が映り込む、滲む、溶ける。
普段は小枝か乾いた骨みたいに枯れた恭の手首が、今は恭自身の血によって生々しくも鮮やかに生命力をまとっていた。
自分だって決して体格が良いとは言えない、むしろ縦にばかり長く昔はもやしと苛められたものだが。
長身痩躯の夜一に対しても恭はまだまだ小柄で、それでいて限られた皮膚をめちゃくちゃに切り刻む様は犠牲的で痛々しい。
怒りの矛先が外側にではなく内側に向いているのか。マゾヒスト?
理解不能な人種だ、と夜一は嗤う。もしくは似た者同士か。
だから面白いと感じるのかもしれない。限りなく近くて限りなく遠い。
傷口を掻き毟る様に爪を立てると、恭が掠れた悲鳴を漏らして夜一の手を引き剥がそうともがく。
「やめ、痛っ……しんじゃう、っあ、」
「死にたかったんじゃないのか? それにしては傷が浅いな。恐いなら俺が切ってやろうか」
ざくりと。
刃なんていらない、こんな細い体で抵抗したって無駄の極みだ。頸椎なんか一捻りだろう。
甘い毒なんて必要無い、一瞬で楽にしてやれる。
恭は怯えたように喉を震わせた。
「ちょっとイライラして切っちゃっただけだから、は、離して」
「嫌だ。なあ、致死量って何リットルくらいだ?」
「やだやだ死にたくない。ねえ僕なんか悪いことした?」
唇を噛み締めて嫌々と首を左右に振ると涙で濡れた頬や唇に絹糸のような黒髪が貼りついた。
「水に浸せば血が止まらなくなる、か」
「怖いこと言わないで! やだやだ許してごめんなさい」
咽ぶような懇願の声に体の芯が急速に熱くなった。
「嘘だよ、お前が死んだら遊び相手が居なくなる」
力が入らないのか麻痺してぐったりとした手首を乱暴に引き寄せ、白い肌に映える血を舌ですくい取っていく。
肘から傷口まで余すことなく舐め取って、赤いバーコードのような傷口を丹念に舌でなぞる。
喉を伝い落ちる血はむせそうなくらい濃い、ホットチョコレートのようだった。
苦いようで甘い。舌が痺れる。
恭は落ち着きなく魚のように口元を動かし、夜一の奇妙な行動を濡れた目で見上げていた。
「変な感じ。いろんなところがむずむずするからヤメテ?」
「何処がむずむずするんだろうな」
此処か、と太股の裏を撫でるとひにゃっ、と小動物のように恭が鳴いた。
血が騒いだ。……男相手に。
学校が同じで学年が同じでクラスが同じで寮が同じで部屋が同じで。
重なりすぎて俺の頭は可笑しくなったのだろうか。
近くて遠い? 認識の距離感がとち狂っていた。
落ち込むとすぐ自傷ばっかりするメイワクな奴、だったはずなのに。
中性的なかんばせに惑わされてるだけかもしれない。泣き顔がそそられるなんて野暮なことは言わないが。
既に押し倒す形、もとい寝転がっていた恭の上に覆い被さっていた夜一は数瞬思案した。
腕の中の恭は捕食を待つ草食動物、にしては活発に抗っている。
……睫毛、長いな。
「よるいち変なものでも食べたの? 今日の夕飯なんだっけ? 肉じゃが? ししゃも? くさや? シュールストレミング?
なんだそりゃ、かもすぞ! くそう、忘れちゃった。夜一のせいだ、へんたいっ離せってば!」
幼稚に叫んでもがいて暴れて好き勝手わめく。
姦しい奴め。
夜一は血に濡れた手で恭の喉笛を掴んでみた。
夜一がへし折る為に恭の喉があるのではと錯覚するくらい手に馴染む肌。
彼の生死が自分の手に委ねられていると勘違いしてしまいそうになる。
やめて、と恭が夜一の甲に爪を立てる。皮膚が持っていかれる不器用な痛み、滲む血。
「死にたくないよ生きたいよ神様仏様あからさまっ、じゃないお地蔵様……助けてくださいぃい許してえぇえ」
死にたいだとか生きたいだとか、音で見れば生きたいなのか逝きたいなのか、なんて裏腹、矛盾、曖昧。
夜一はふと笑んで恭の耳元で囁いた。
「煩い」
黙れって言ってるだろう。
顎を掴む。邪魔する眼鏡は既に明後日に放棄。自分の唇で恭のそれを塞いだ。
冷たいような暖かいような境の温度、少し湿っているのは唾液か涙か、奇妙にしょっぱくて、唇はマシュマロみたいに柔らかい。
女子のリップクリームで丁重に保護された唇となんら変わりなかった。離せない。むしろ吸いつくような。
依存、中毒、乱用。そんな単語が浮かんでは消え、薬物に似ているなとぼんやり思った。
「っ、ん……」
鼻で息をするということを知らないのか忘却の彼方なのか恭が喘ぐよう吐息を漏らし、不用意に酸素を求めて唇を開いた。
舌をねじ込んでやろうかと思ったが、留める。無理矢理食うというのも萎えた。弱々しい小動物にこそ欲しいと懇願させたい。
夜一は飽きた、と呟き恭から離れ眼鏡を拾い上げた。
月光に光るフローリングの上にぐたりと倒れ込み、恭は呆然としている。
「ここ、こ、こ、これは一体どういうことなんだい、えろてれ、えろてるりす、……夜一くん」
二回噛んで諦めるあたりは利口だ潔いぞヨシヨシと胸中で褒めてやって、
夜一は恭の放心状態を横目にレンズを制服の袖で拭い、そして掛け直した。
手の甲に走った三本半の傷をぺろりと舐める。苦いような酸っぱいような不快な味がした。恭の血はあまりにも甘すぎた。
「どういうことって、もしかして初めてだったとか?」
「うぐ……」
「図星? そりゃ愉快愉快。初めてが男で屈辱的?」
「クツジョクテキ」
恭が苦い声で吐き捨てる。
夜一はまた目が悪くなったなと度の合わないレンズで周囲を見渡し、逢着点のように恭を見下ろした。
そして安心しろと囁き、カカオ比率の高すぎるチョコレートみたいな笑みを浮かべる。
「俺にとってお前はただの遊び道具でしかないから」
ナイトメア シヨクラアト
08/10/05