アサギの両親は共働きで、いつも夜が遅かった。
 珍しく三人揃って出掛けられた縁日で、アサギが夜寂しくないようにと両親は一匹の漆黒の金魚を購入した。
 気まぐれによって増えた、アサギにとっては立派な家族。 大人からしてみれば手間のかからない「ペット」であり、生命についての教育とアサギのお守りになる、一石二鳥の存在。
 だがしかし。
 金魚鉢の中でけろっと尾をたゆたわせているこの金魚。
 真夜中になると見事に化けるのだった。





 夏の熱帯夜、未だ泣き喚く蝉、自棄に姦しく感じる目覚まし時計の秒針音。 広すぎる日本家屋、手入れの行き届いた庭、蓮がぷかりと浮かぶ池が望める一室。
 何十畳もの部屋にぽつねんと夏用布団を敷き、その中で落ち着きなく寝返りを打つアサギの姿が、障子紙に透ける月明かりに空しく照らされていた。
 生ぬるい布団も手伝って眠りの妖精がやってくることはない。


 幼いアサギには、この家は残酷すぎるほど広かった。
 この春、他界してしまった父方の祖父母の家を譲り受け親子三人で住み始めてまだ数か月。 マンションのフローリングの床が恋しいと同時に、両親には適応能力を疑われる始末。
 慣れないものは仕方がない、とアサギはぶんむくれるばかりだった。


 鈍く温まった夜気とは反対に、冴え冴えと冷たく青く光る月光から隠れるようにアサギは小さな手でタオルケットにしがみつき顔を埋める。
 夜になると音が怖い光が怖い影が怖い、と敏感なアサギは全てに怯えて縮こまってしまうのだ。 昼間活発にはしゃぎまわる彼女はすっかり鳴りを潜める。



 やがて静かな部屋に途切れ途切れの嗚咽が漏れ出した。
 寂しさに染まった音色が部屋を満たし、やがて冷水の張られた金魚鉢へと辿り着き。
 そして、何処からともなく声が上がった。

『アサギ?』

 ……また、泣いてるの?
 水面がちゃぷりと揺れ波紋が起こる。と、ふいに一つ長身の影が青白い光の下に現れた。
 痩躯に纏った闇色の襦袢にゆるく結ばれひらひらしている正絹の紺碧の帯――  透き通るような乳白色の肌に、漆黒の髪、空に似た不可思議な瞳の色を持つ青年が影の正体だった。
 そう。金魚は真夜中になると端整なかんばせの青年に化けるのだ。
 アサギにとって金魚の変化は魔女のサプライズでも手品師のイリュージョンでもない「日常」になっていた。
 さすがに最初は驚いた。でも、此処の畳暮らしに比べればすんなり受け入れられた。 夢持つ子供だからこそ可能な話かもしれない。
 金魚の青年は以前よりもっと大切な家族になった。



 ひたり、ひたり、と畳に水滴を散らしながらアサギの枕元までやってくると、青年は無遠慮にべろりとタオルケットをひったくってアサギの顔を覗き込んだ。
 アサギは嗚咽で「うぐっ」と喉を詰まらせながら、

「やだ、みないでよ、変態魚。わたし泣いてないもん……ッ」

 真っ赤に腫らした目を手で隠して変態魚、もとい青年を静かに罵った。
 青年は可愛らしい抵抗にくすりと微笑み、アサギの艶やかな濡羽色の前髪を掻きあげ額にしっとりと冷たい手を当てる。

『相変わらず夜は寂しいんだね。一人が怖いのかい?』

 からかうような響きの声にアサギはむっとして、ピンクの花柄のネグリジェから伸びた足をバタバタと暴れさせた。

「ちがうもん。寂しくないし、泣いてないし、怖くない。それ以上わたしのこと子供扱いしたら、今度からポニョって呼ぶよ!」

 それでもいいの?!と一丁前に脅迫してアサギは充血気味な目で青年をじっとりと睨んだ。
 青年は青空の光に染め上げられた瞳を曖昧に曇らせて外国人のように肩を竦めると。

『俺をあの人面魚と一緒にするってんなら、いいよ? 別に。顔だけ人の姿のまんま優雅に泳ぐから』
「そ、それは怖い、かもしれない……やっぱ、ダメ! ポニョ禁止!」
『じゃあ、かえ「る前に何か歌って。行っちゃダメ」

 金魚の尾の如くたなびく兵児帯をむんずと掴んでアサギは青年に強請る。
 ダメダメばっかりだな、青年はアサギの我儘にそっと溜息を吐いて苦笑した。



 ――通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細通じゃ  ……この子の七つの お祝いに ……行きはよいよい 帰りはこわい

 わらべ唄を歌いながら、タオルケットの上からポン、ポン、と胸を叩いてやるとアサギは安心してすぐに眠ってしまう。 ひとりじゃない安堵と、一日の終わりの儀式めいた空気がちょうどいいのかもしれない。
 青年の歌が終わる頃には嗚咽ではなく安らかな寝息が部屋に響いていた。

『おやすみ、アサギ』

 涙でしょっぱくなった頬にキスをして、お化け金魚は鉢へと帰る。
 それが毎晩泣き疲れて眠るかあいそうなアサギに青年がしてやれる全ての事だった。



「ただいまー」

 夕暮れ時。
 誰も居ない家に向かって帰宅を告げても勿論返事はない。
 アサギは林檎色のランドセルを無造作に床に投げて台所へ向かう。 母親が出勤前に慌てて作って行ったラップ掛けの夕食が食卓にあるばかりで、おやつなんて気の利いたものはない。
 アサギは母親が片せなかった洗い物を果たすために来たのだ。


「ねえ、金ちゃん。わたしって主婦みたいだと思わない? えらくない?」

 まだ小学生なのに。
 干しっぱなしの洗濯物を取り込んで畳みながらアサギは独りごちる。
 積み上がる洗濯物の山の傍らには金魚鉢、唯一の話し相手。
 勿論、金魚は魚のまんまだ。ポニョでもなければ人でもない。よかった。 でも、アサギはたまに思うのだ。ちょっとくらい昼間に化けてくれてもいいのではないかと。
 真夜中にしか金魚は青年にならない。もしかすると月の光が必要なのかもしれない。 ムーンライトパワー・メイクアップ的な何かが。


 洗濯物を箪笥に仕舞って一息。アサギは金魚鉢に目をやってううむと唸る。
 最近鉢の水を変えていないなぁと思い当ったのだ。
 アサギは水色のバケツを持ってきてそっと鉢の金魚と水を移すと、池の水を汲んだ。 お米を洗うような要領で鉢の砂を綺麗に洗って、水を新たに汲む。
 バケツの中にそっと手を差し入れると、すいーと金魚は大人しくアサギの掌に収まり住処に戻ってきた。
 ちゃぷん、と金魚がなめらかに入水。

「綺麗なお水の方が気持ちいいもんね」

 アサギはにっこり金魚に笑いかける。



 そして、夜が訪れた。
 アサギが子どもらしくない押し殺した様子で泣いているとひたりと足音が鳴る。
 しゃっくりを上げながらタオルケットの合間から覗くと、青年が青白い月光を背負って立っていた。
 アサギがひりつく喉で言葉を絞りだそうとするのを遮る様に、青年が彼女の名前を呼ぶ。

『アサギ』

 青年はアサギの傍らに崩れるように座り込み、距離が近づいてようやく表情が見て取れた。 快晴だった空色の瞳が、今は鉛色の曇天に変わっている。
 何故……?

「どうしたの、金魚さん……?」

 青年はぽたりぽたりと指先から水滴を落しながらアサギの頬に触れ、熱い瞼をなぞり、そっと頭を撫でた。
 曇り空の瞳で笑って見せるが、苦しさが隠し切れていない。
 それを感じ取ったアサギの小さな胸は嫌な予感でいっぱいになる。

「どこか痛いの? 苦しいの? 悲しいの? ねえ、教えて金魚さん。黙ってたら分かんないよ」

 アサギは涙を一生懸命堪えて青年に問う。
 お化け金魚の青年はたくさんの感情をごちゃ混ぜにしたような顔をし、仕舞いには悔しそうに唇を噛んでそっとアサギの小さな体を抱き寄せた。
 ネグリジェを濡らす冷たい水の滴る体は、どうしてなのかいつだって不快じゃなかった。 いつも一緒に居てくれた彼だからだろうか、例え寒い冬の日でもこの濡れた体にすがりつけば安寧が訪れる気がアサギはしていた。
 青年の手がアサギの頭を何度も何度も撫でる。
 アサギの脳裏にふと過ったのは、河川敷に捨てられてダンボールの中で鳴いていた子猫の事だった。
 見つけたはいいが家じゃ飼えなくて、当分生き延びられる分の餌だけ置いて子猫の元を離れる時のあの名残惜しさを思い出していた。
 バイバイ、猫さんバイバイ、死んじゃダメだよ、またね、元気でねバイバイ。
 そんな温度をアサギは青年の掌に感じていたのだ。

 青年は息を一つ吐くと絞り出すようにアサギの耳元で囁く。

『アサギ』
「なあに? 金魚さん」
『君はもう一人じゃないからね、安心して眠るんだよ、もう泣かないでおくれ』
「金魚さんがいれば平気だよ」
『アサギ』
「なあに? 金魚さん」
『これをあげよう。もう泣かないって約束してくれるなら』

 青年がアサギに手渡したのは虹色に輝く大きな鱗だった。
 アサギはそれを月光にかざして眼を真ん円にして見、キレーと感嘆の声を上げてこくんと頷く。

「もう泣かない。約束する」
『よかった。いい子だ』

 青年はアサギの額にそっと口付けを落とすと、急に力が抜けたようにふにゃりと微笑んだ。

『ごめんね、アサギ』
「なんで謝るの? 金魚さん」
『さようならだ』

 青年はぽかんとしているアサギを布団に降ろしてタオルケットをかけてやると、よろりとアサギの死角に入り込む。

「金魚さん?」

 慌てて身を起こしたアサギの目の前で、青年は紺碧の帯を揺らしながら庭の池にとぷん、と。
 消えた。
 バイバイ、と悲しげな声が鼓膜を撫でる。それは誰にとっても突然のことだった。



 幾日かしても迷い猫ならぬ迷い金魚は帰ってこなかった。
 そのかわり、ニュースや新聞で近所の工場から違法の化学廃棄物が川に流されていたことが報じられた。 庭先の池は今や不気味に光る虹色の油を浮かべ、蓮は花盛りのはずなのに茶色く枯れていた。
 幼いながらにアサギはほとんどを察し、そして彼との約束を破って泣いた。
 彼はみんなの身代りになっていなくなってしまったのだ。



 住人が居ない、彼から貰った鱗だけが沈んだ金魚鉢。
 空っぽに等しい水の張られた硝子鉢を抱えて、毎夜眠ることの出来なくなってしまったアサギは学校も行かずに縁側の陽だまりの中にいた。
 乾いた唇は虚ろに金魚さん……金魚さん……と呼び続ける。 瞳は死んだ魚の目のように濁りただ一心に庭の池を見つめ続け、目の下には淡いクマが浮かんでいた。
 誰の目から見ても明らかに衰弱しているアサギだったが、両親はお構いなしに今朝も元気に出勤していった。
 私のことなんてあの人たちはどうでもいいのだ。
 もつれて絡まった髪の毛の中でアサギは不意に泣き始め、睡眠不足からほとんど意識を失うように眠りについた。



 ちゃぷん、ちゃぷと穏やかな水の揺れる音がしていた。ゆらゆらと光が乱反射してアサギの目を焼く。
 水の中に漂っているようだった。頭上は蒼い空、青年の瞳と同じ色だ。力無くアサギは水の浮力に身を任せ、漂流する。
 ゆるく口を開けると気泡が柔らかく漏れて、アサギの黒髪をなぞりながら舞い上がった。
 その傍らを水流に弄ばれてぐらぐらと形を変える泡が空に昇って行き、ごぽりと弾ける。
 すると、青年の囁き声が耳に届いた。

『一人じゃないよ』

 其処此処で泡が囁く。アサギはびっくりしながらその声に耳を澄ました。


                           『泣かないで』

                                   『いい子、いい子……』

                  『この子の七つのお祝いに……』

                                      『俺はいつもそばにいるから』

    
『もう一人で泣かないで、アサギ』



「本当? 金魚さん、いつも私のそばにいてくれる?」

    
『いるよ。見えなくてもずっとずっとアサギのそばにいる』

だから泣かないで。


 泡に包まれた金魚鉢が空に当たって砕け散った。降り注ぐ飴玉みたいな硝子の破片を手に取ると、それは何故か金魚がくれた鱗にすり替っている。
 アサギは掌の約束に頬を寄せて、甘く柔らかく笑って内緒話をするように囁いた。


「――――――ありがとう、大好きな金魚さん」



 目が覚めると腕の中の金魚鉢は、まるでアサギを励ますようにキラキラと日の光で煌めいていた。
 穏やかに、時折鋭く瞬く硝子鉢と虹色の鱗は晴れ渡った空色を切り取って息づいて、あの金魚の青年にどこか似ていた。
 アサギは眠い目を擦りながら、冷たく濡れて光る金魚鉢にちゅっと桜色のキスをして微笑んだ。

「もう寂しくないよ、金魚さん」







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