堪え切れずにメールをした。
『夜遅くにごめんなさい、先輩。傷が痛むんです。泣きたい』
助けてください、とまでは書けなかった。
月灯のように光る液晶画面を白く煙る吐息が覆い隠す。
遊花は包帯が固く巻かれた左手で胸を押えて唇を噛んだ。
心拍のたびに血流がざわざわと綿の下の傷口を撫で、冷たい夜気が人工の糸という異物で塞がれた其処に針、と刺さった。
まるでもうひとつ心臓があるみたいで落ち着かない。
早く止まればいいのに。
もうひとつの心臓は、痛みと憎悪を糧に脈打っている。
厳冬の深夜、住宅街ど真ん中のコンビニの前に涙目でしゃがみこんで早三十分。
ベースケースを背負って怪我をしている女子高生という体では
警察に見つかっても上手い言い訳が出来ないだろう。
でも髪も染めてないし制服も着崩していないからまだマシかな?
遊花は寒さと心細さを忘れようと首にかけていたヘッドフォンを装着してケータイを操作する。
Load up on guns and bring your friends.....
流れ出したグランジチューンに背中の相棒がもどかしそうにしている気配を感じた。
勿論、真ではない虚の気配だ。でも分かる。
Duesenberg社製、ミッドナイトブルーのベース君は歌いたがっているって。
ごめんな、今は弾いてやれないんだ。
溜息。
夜空に眩く光る月に手を伸ばして拳を握ろうとしたが、傷口が開くような鈍い感触と鋭い痛みに
遊花は空に彷徨わせていた手を落胆と共に降ろした。
役立たずな手も使えなくしたアイツも憎くてたまらない。
デスノートが手元にあったら極太のマーカーで名前を書き殴っている所だ。
死ねばいいのに、ホント。
其処まで思考して嗚呼厭だ、遊花は頭を抱えた。
負の感情は毒に化す。押し込めた意識から血液へと混じり出して身も心も蝕んだ。
責任をアイツに、彼に転嫁する事で楽になろうとした私。
彼は私の身を裂いた、私は彼の心に爪を立てて傷つけたのに。
結果だけ見れば罪は五分五分。この怪我は贖いなのか。
最低な私。先輩からの返信は無い。
寒さに縮こまりながら膝頭で瞼を塞いで涙をせき止めていると、
ペロペロペロ……という力の抜けたエンジン音が遊花の近くて止まった。
鼻をすすりながら顔を上げると、ガーネットカラーのVinoとゴーグル付きのハーフヘルメットを脱いでいる六音の姿。
三点リーダー四つ分くらいの思考停止の後、遊花はハッとして声を上げた。
「先輩っ……?!」
嘘、やだ、本当に。
「なんで、どうして、居る、の」
バイクグローブを上着のポケットに突っ込みながら六音はん?と笑って、
「GPS」
と非常に端的な答えを遊花に放って寄こした。
あっそうですかですよねハイテク社会ですもんね。
それしか言えなくなって言葉を探す遊花の隣に六音はしゃがみこむと、
犬と接するような角度で(……犬?)遊花の目を覗き込んでくしゃくしゃと頭を撫でた。
「風邪引くからウチにおいで」
「え、でももう遅いですし……」
「それか家に送ったげる」
「……それもヤダなぁ」
「ならいいんじゃん。なんか買ってこう」
せっかくコンビニあるんだし。
六音は遊花の手を取って立ち上がらせると、スキップで光に魅せられた蛾がチラチラ飛んでいる入口へ向かう。
彼女の精神を象徴するようなVivienne Westwoodの革財布をポケットから取り出して
お酒買えるかなぁなんて呑気に言ってる。
歌うように笑ってるのを見て、安心した。一人は心細くて死んでしまいそうだったから。
「彼氏に殺されそうになったんだって?」
オーブが光る銀のライター(またVivienne Westwoodだ)で煙草に火をつけて六音は紫煙を目で追いながら苦笑する。
大人っぽくてドキッとする姿だが、間違いなく未成年。
「ちょっと大袈裟ですけど、まあそんなトコですね」
六音の家族はみんな寝てしまったらしい、年齢を誤魔化して買った酒と煙草を部屋に持ち込んでもバレることはなかった。
まあグレたくもなるさ。
遊花はどうしようもなく沈む気持ちに鬱々とコーラを舐める。
「落ち込むなって。そういう時は酔っちゃえばいいんだよ、ホラ」
六音はジュースみたいなもんだけどとカクテルを差し出す。
遊花は上手く扱えない左手をもどかしく思いながらそれを受け取った。
「傷、深いの?」
「六針縫われました」
「アチャー。卒業ライブには間に合わないかもね」
そうやって六音に言われると絶望の淵から真っ逆さまに落ちる気がした、トドメを刺された。
爪の先ほどの希望の火も消えてしまう。
「ごめんなさい先輩……本当バカですよね私」
別れ話で彼氏を怒らせて大事な左手にガラス片を突き立てられた、あの時は痛みより冷たい絶望の方が大きかった。
それほど大切な人じゃなかった、と言ったら皆怒るかもしれない。
確かに惰性で付き合っていた、胸が躍るようなことは一度も無かった。
手を繋いで抱きしめてキスをして、でもそれより先には進めない、感情は動いてくれない。
友達と恋人の狭間で揺れるような仲だった。でも彼は本気で私を好いてくれていて。なのに気が付けなかった私。
それが私の罪だ。代償は大きすぎる。
先輩の卒業ライブまでには絶対治らない。
ステージに上ってベースを弾けないなんて、私が先輩に出来ること全てを奪われたようなものだ。
「最低です私」
「いいんだよ。若者の恋なんてね、傷つけ合って硝子の心に細かい傷をつけ合って消耗していくようなものさ。
後悔だらけで成長していくの、ってどっかの誰かが言ってた。
そうそう、ライブもね、私が卒業してからだっていくらでも出来るんだよ」
「え?」
「終わりじゃなくて始まりにしよう。デビューとか大きい夢はまだまだだけど、活動を続けたいんだ。
お世話になってるライブハウスからもお呼びがかかってる。遊花にも参加してもらいたいんだけど。ダメかなぁ?」
人懐っこい猫みたいに六音は笑む。
遊花は、たっぷり一分ほど沈黙した後どうにか消化した言葉の意味にコクンと首を落とすように頷いた。
ダメじゃない全然ダメじゃない、でも。
「本当ですか先輩。エイプリルフールにはまだ二か月くらい早いですよ」
「嘘だと思う?」
「いいえ」
左手は高鳴る胸のせいで最高潮に痛んでいる。この痛みは幻なんかじゃない。
「私遊花のベース好きなの。遊花じゃないと安心して歌えない。一緒にバンド続けてくれる?」
確かめるように再度聞く六音の言葉に嗚呼本当なんだと実感した。
遊花はこみ上げる涙を飲みながら震える声ではい、と答える。
「やります。死ぬ気でやります」
「よかったぁ。ありがとう遊花。じゃあ死ぬ気で怪我治してね」
「はい。でも、一つだけお願いを聞いて下さい」
ずっと言いたかったことがあるんです。
鼻をすすって声が震えないように息を飲んで、なぁに?と首を傾げる六音の透き通った瞳を見つめる。
「彼氏と喧嘩して別れて怪我してベースが弾けなくなって、気がついたことがあるんです」
怖いけれどどうしても言いたい、言葉にしなくちゃ伝わらない。
恨んだはずの左手の痛みが、逃げんじゃねぇと私を攻めている。
逃げるものか、罪と代償の末得たものがある、こんな辛い思いして分かったこと。
神様は時に少しだけ優しい。
胸は痛いくらい鳴っていたけれど、思わず淡く微笑んで遊花は告げた。
「六音先輩のことが、好きです」
キスより先に進めなかったこと、感情移入が出来なかったこと、彼氏に怒鳴られた台詞。
“分かった、俺よりあの人のことが好きなんだろ!”
それが全ての答えだった、コトリと何かが胸に落ちた思いだった。
ギターを掻き鳴らし「殺してよ!」と叫ぶ先輩に“憧れて”、意地でもバンドに潜り込んでやろうと必死になってベースを勉強した。
努力は実り、軽音部にスカウトされて先輩との距離が縮まって毎日一緒にいられて幸せだった。
初めてライブハウスのステージでお客さんにパフォーマンスを披露した時のことは、いつだって鮮やかに思い出せる。
彼氏なんかより私は先輩を見て生きていた、呼吸をしていた。
つまりは嫉妬されたのだ。
六音は静かな面持ちで最後の紫煙を吐き出すと、フィルターギリギリまで吸った煙草を灰皿に押し付ける。
好きにはいろんな意味があるけれど、きっと本心は伝わったはずだ。
遊花がかじかんだ唇をほどいて睫毛を震わせながらそっと息を吐いていると、
「知ってるよぉ」
六音がクスクスと笑いだした。遊花はぽかんと口を半開きにしてしまう。
「素直で分かりやすくて可愛くて一生懸命で、遊花の目はいつも恋してる目だった。
最初は彼氏の所為かなって思ったけど違うって分かった」
少しかすれたハスキーボイスで六音は囁いて、遊花の小さな体をぐいと引き寄せ髪を撫ぜる。
体温が近い。
柔らかなアルコールとカシスの匂いに苦い煙草の香りが混じる。
「私もね遊花のこと好きだよ」
「厭じゃないんですか」
「全然」
本当に?
嫌われると思ってた、気持ち悪がられると覚悟していた、なのに、どうして。
心臓が壊れる音がした。初めて聞いた、恋が孵化する音はとても儚く惨い音だった。
六音は遊花を抱き寄せ、口付けをする。厭じゃないんですか、全然。その証明を残すように強く強く。
遊花はぐちゃぐちゃに、複雑に混ざり合う感情のまま六音にしがみついて泣いた。
....Hello, hello, hello, how low?