彼女の腕には、白い五線譜が走っていた。幾筋も幾筋も。
一体どんな感情の揺らぎをぶつけたのかなぁと僕は考える。
踊る音符はきっと怒りと悲しみに満ちた音を紡ぐだろう。だが、どこか攻撃的なはずだ。誰へ何処へ棘を伸ばすのかは分からないけれど。
そこまで考えて、僕はパーカーの袖をそっと肘まで上げてみた。誰も見つからないようにヒソリと。
彼女とは比べモノにならないくらい、浅い淡い線が腕の内側に残っている。
ちょっとだけ情けなくなって、恥ずかしくなった。そしたら、彼女のようにもっと深い傷跡が欲しくなった。
でも、痛いから怖いから、僕はきっとカッターの刃で薄く皮膚を裂くだけに留まる。
そして言い訳する。「このカッターじゃ肉は切れないや。残念」って、少しだけ冷静になって。
それで、もっと鋭利な刃物を手に入れるにはどうしたらいいかなと絆創膏に滲む血を冷めた意識に焼きつけながら思うのだ。
こういうのを馬鹿っていうんだろう。
世間一般に、そういう自傷行為はリストカットだとかアームカットだとか呼ばれている。
自傷痕は見せびらかすものじゃない。
その傷痕は荒ぶった感情の名残りだから。見苦しい衝動を他人に晒して共有するなんて馬鹿げてる。
痛みの痕は悲しみしか与えないから、相手も傷つけてしまう。
それはただの負担で、甘えで、助けて欲しかったら声でなり文章でなり、もっと思いやりのある方法で伝えればいいことだ。
壊れた自分は自分で処理するしかないから、傷痕は大切に大切に隠して、癒えるのを待つ。
それが償いってものだと僕は思う。へらへら笑って傷を見せつけている奴にはいい加減にしろ、と自分のことは棚にあげて怒りを覚えてしまう。
教室、窓際の後ろから二番目の席に座って、彼女は虚ろに図書館の蔵書らしきライトノベルを読んでいた。
意志の強そうなツリ気味な目元に始まり顔は怖いくらい整っていて、腰まで届く黒髪に白い肌、浅葱色のブラウス、
花柄のシフォンスカート。そこまでは完璧なのだが、裾から覗く学校の上履きが彼女を不完全なものに貶めていた。
まあ、私服の高校だからしょうがないし、彼女に限らず違和感はそこら中に溢れていたけれど。
それで、僕は自身が所属していると思われる集団からさりげなく抜け出して、一人ぼっちで椅子に座り込む彼女の元へ歩み寄った。
静かに、足音を殺して。そして言ってやった。
「あのさ、暑いの? 見て欲しいの? それとも助けて欲しいの?」
丁寧に折られたブラウスの袖は肘の下辺りで止まっていた。
露出した腕には、あの蓄音器でなぞったら音が出そうな溝ならぬ傷があった。
彼女はぱたりと本を閉じた。栞も挟まずに。
そして可愛いというより綺麗な小さな顔をこちらにすっと向けた。
僕はてっきり嫌な顔をされて「バカ、うざい、どうでもいいでしょそんなこと」「見ないでよヘンタイ」とかとか言われると思っていたのだが、予想は見事に外れた。
彼女はふにゃ、と嬉しいような苦いような例えが微妙だが、そう、ハンペンみたいな笑いを浮かべて紅の要らない唇を動かした。
「私のことが気持ち悪くないの?」
手首から肘までの肌はズタズタで、それを晒している彼女はとても美人さんで。確かに化け物じみてはいた。
僕の質問に答えてはくれないのか。自然と出た溜息を隠しもせずに吐いてから、僕は呟く。
「君には劣るけど、僕も似たようなものだから。嗚呼、見せてくれと言われても見せないよ。見物料がわりのお菓子も受け取らない。
僕の傷は僕だけのものだから、面白がらないで欲しいんだ。同士を見つけた、と目を輝かせて欲しくもない。真似もして欲しくない。識って欲しくない。
リストカッターは情報の犠牲者だから。僕自身もね」
そこまでぼそぼそと続けたところで彼女が頬杖をつきながら笑った。
「あなた、面白い人ね。それに、優しい人だわ」
ちょっと意外。驚いた。でも、君の目は節穴だと思う。
「僕はただのしがない臆病者だよ」
いつから僕という一人称を使い始めたのだっけ。振り返ってみればすぐに思い出せる。ちょうど腕を傷つけるようになってからだった。
多分、その時は何もかもが苦しかったから別の人格を作ってみようと思っていたんだ。だから今までの「私」という一人称を「僕」に変えた。
衣服も、気がついたらメンズショップで買うようになっていた。もともと背も高かったし、肩幅も少し広めで体格は良くて、前々から女物は似合わないと思っていた。
そのうち、スカートを履くと気持ち悪くて落ち着かなくなった。制服が着たくなくて中学校に通うことに抵抗を感じるようになった。薄くても膨らんだ胸が嫌になった。
生理の鈍痛も出血も無くなれ!無くなれ!と呪った。ホルモン注射について熱心に調べてみたりもした。
それでも、はっきりと人格が解離することはなかった。残念ながら。というか、気がついたら肉体構造の域まで考えが及んでいた。
実行しなくて良かったと思う。だって、所詮一時の逃避だもの。将来後悔するに決まっている。
「何考えてる?」
「僕に聞いてる?」
「当たり前でしょう。他に誰も居ないんだから。それとも何にもないところに向かって話しかけて欲しいの? 私、霊感無いよ」
彼女は肩を竦めて大袈裟にあたりを見回した。
確かに無人駅の利用者は皆無だった。一時間に一本、多くて二本しか出ない田舎の駅の真の姿。
夕暮れ時の橙色に染め上げられた人影のないホームに腰かけてレールを見下ろしながら足をぶらつかせる。爪先に血が集まって、脚がうすら寒くなった。
足を揺らすたび、カーゴパンツの尻がざりざりとコンクリートに削られていく。
隣で彼女は膝を抱えてフレアスカートの裾と黒髪を風にはためかせていた。
俯いているのに疲れてふと顔を上げると、何考えてる?の問いに答えて欲しそうな眼差しを彼女が投げていたので僕は渋々答えた。
「君との出会いを思い出していたんだ」
「あら、ロマンチックね」
「どこが。何が。どこらへんが」
僕の(自覚している)うざったい重ね重ねのツッコミを華麗にスルーすると、彼女はニコニコ笑いながら僕の腕に自分の細い腕を絡めてきた。
体温の高い彼女から滲んでくる熱は、気だるい湿気の多い梅雨時には少し居心地が悪い。でも、嫌とは思わない。触れ合った場所は優しい。
読書好きで大人しい美人だと思っていた彼女はびっくりするくらい明るく、押しが強い男好きだった。
話しかけた僕を本気で男だと勘違いして付き合ってあげてもいいよなんて初めての会話の直後に言って来やがった時には頭が真っ白になった。
僕は女ですよほら胸があるでしょう、というのがどれだけ苦しかったことか。紛らわしいのは自分のせいだが、いざ間違われると複雑だったりする。
それで、誤解は無事解けたのだがやはり彼女のスキンシップは過剰だった。
歩いていれば腕を組み、手を繋ぎ、嬉しかったら抱きついてくるし、道端で愛してる!と叫ばれることも少なくない。積極的なのだ。
むしろ僕より彼女の方が男前かもしれない、内面が。
それでも外見は変わらないから傍から、とくに後ろから見たらカップルにしかみえない。勿論、男女のカップルだ。
電車のボックス席に乗り合わせたおじいちゃんおばあちゃんに仲が良いねえ結婚はいつだい?と笑えない冗談をかまされたこともある。
確かに彼女は綺麗だ。中身は女の僕でもどきっとするくらいに。僕が釣り合っているのかは分からないが、ともかく彼女は勘違いを楽しんでいる。
まあ、ぶっちゃけちょっとうんざりしている僕です。
今もまた、彼女は僕の肩に頭を預けて眠そうにしていた。
傾いた角度の所為で、ゆるいTシャツの胸元から彼女の柔らかい谷間が見えてびくっと指先が震えた。
ばか、動揺するな、女同士だろ、この変態。すっかり男扱いされて意識まで男化しつつあるらしい。困ったな。
僕が静かに胸の内でうろたえていると、彼女がぼそりと呟いた。
「ねえ、私のこと好き?」
「へ?」
ひまわりとかたんぽぽとか、そういった温かい花みたいに笑いながら、彼女はグリーンランド?の氷点下の声で僕に問うた。
先ほどのやわらか谷間事件(今命名した)から、ちぐはぐな道化のような彼女の姿に僕の動揺は加速してしまって、一度二度深呼吸をしなければならなかった。
改めて声を発する。少し擦れた。
「友達としてなら好きだし、大切だよ。まさか彼氏と彼女の意味で聞いてないよね?」
怖々と尋ねる僕に彼女はニヤニヤとドクダミのような笑みを浮かべ、数々の男をたぶらかした演技でしゃがれ声を生み出し、「さあね」と魔女のように囁いた。
そうやって僕で遊んだあと、ふうとため息を吐いて彼女はまたことりと僕の肩に額を預けた。
疲れているのだろうか。先ほどから傷まみれの腕をさすっているから、嫌なことでも思い出しているのかもしれない。
僕は気がつくと幼子を寝かしつけるように彼女の艶々とした髪を、頭を静かに静かに撫でていた。
そして、胸の奥の方からふつりふつりと溢れる言葉を素直に吐き出す。
「頑張って、無理して笑わなくてもいいんだよ」
はっと、息をのむ音が聞こえた。表情は分からなかった。知らなくても良かった。僕は無機質なレールを見つめていた。
ふふっと、笑むのが分かった。彼女は僕のパーカーの肩のあたりをきゅっと摘んで、吐息と一緒に可笑しそうに囁いた。
「優しいのね。だからあなたのことが好きなのよ。愛してるわ」
「君は人を過大評価する傾向があるようだね。僕は、ただのしがない臆病者だよ」
だから、ね。アイシテルなんて、言いたくても言えないんだ。
無理して笑わなくてもいいんだよ
――ただ君を思うから、
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