窓の向こうで淡い霞のようにシトシトと雨が降り出した。
一粒一粒が奇蹟のように光って、天鵞絨を織り成し流落していくその光景に、リヒテンシュタインは嗚呼と微笑んで溜息を吐いた。
雨粒が歓喜に歌っていた。あまりにも綺麗で、声を忘れてしまう。
熱く締め付けられるような感動がリヒテンシュタインの小さな胸を打った。
白皙の柔らかな肌に、冷たく濡れるグレーの光が照る。
乾いた窓硝子についと触れた先から、あまりの冷たさに肌の表面が微睡みだす。
凍え蝕まれる感覚に、あの日の飢餓と寒さが呼び起されて指先がちくりと疼いた。
寒い、温まりたい、お腹が空いた、目が霞む、傷が痛む。
……私、消えてしまうの?
苦しかった、辛かった、あの時のリヒテンシュタインにとって雨は、すなわち痛みだった。
けれども今は。
一番好きな天気だ。
疎ましがる人も多いけれど雨は、絶望という海に沈む私に差し出された救いの手…お兄さまと出会ったことで慈雨になった。
雨天を仰いでリヒテンシュタインは温かな感情を抱きすくめる。
私は今とても幸せです、お兄さま。
そしてその思い、彼女の幸福は国民へと連鎖するのだろう。
ぼうっと飽きもせずリヒテンシュタインが雨色に染まっていく庭を眺めていると、視界の端に蒼い影が過った。
え?と驚いてそちらを見ると、今では窓硝子を打ち破らんばかりに叩きつける雨で外の景色は涙模様に歪んでいる。
そんな中で蒼い影は硝子にゴンッ、とぶつかってフレームアウトしていった。
一体何でしょう……?
リヒテンシュタインは窓際を離れて、好奇心に導かれるまま自室を出た。
人影の無い石畳には砕け散らばった鏡のように水たまりが点在していた。
傘を打つ雨風に手間取って帰宅が遅くなってしまった。
こんな日に買い出しに行くのは無謀だったであるか…リヒテンシュタインが待ちくたびれていないといいが。
スイスは自らの判断ミスに小さく舌打ちしながら、軋む自宅の庭内に入り、
そして足を止めた。
「リヒテンシュタイン!?」
窓の下で雨に濡れ細りながらうずくまるローズ色のドレスの背が飛び込んできて、スイスは腕に抱えた買い物袋もおざなりに、非常事態とも思える妹へと駆け寄った。
一体何が起きたのか。
思考を巡らす暇も余裕も無かった。ただ目先の小さな背中に手を伸ばすばかりで。
泥に濁った水たまりをバシャバシャと蹴散らす音に、リヒテンシュタインがハッと振り返る。
お兄さまったら、いつにも増して猛々しい足取りですこと。
驟雨だと祈りたいほどの目も開けられぬ雨脚に、リヒテンシュタインは目を細めて兄の姿を見上げたが、残念ながらその距離では表情を見て取ることは出来なかった。
「おかえりなさいませ、おにいさ、きゃっ!」
バシャン、と二人の足元で雫が跳ねる。
帰宅早々、突然の兄の抱擁にリヒテンシュタインは悲鳴を漏らした。
驚きと恥ずかしさで速くなる鼓動が息苦しくて、死んでしまいそうだ。
なんだか今日は色々なドキドキで胸がいっぱいだった。
片手に傘を、もう片方にリヒテンシュタインを納めてスイスは一人急いた様子で尋ねる。
傘をバタバタと打つ雨音に声も言葉も飲み込まれてしまい、スイスは声を荒げた。
「具合でも悪いのかリヒテンシュタイン! 立ち眩みか? 眩暈か? どうして外に……!」
アイスブルーの瞳には殺意にも似た焦りの色が浮かんでいた。
今度はリヒテンシュタインが唖然としながら、しかし平然と、
「お兄さま、立ち眩みと眩暈は一緒ですわ」
「嗚呼、そうか………っ! そんなことはどうでもいいのである! 我輩はお前の身を案じているのだ!」
其処まで聞いてリヒテンシュタインはあらまあ、と合点して両手の平をスイスの前に差し出した。
雨に冷えて赤くなってしまった白魚の手に目を落とし、スイスは眉間を僅かに曇らせる。
リヒテンシュタインの手中には、
「なんだ、その、蒼い毛の塊は……」
「毛ではなく羽です。鳥ですわ、お兄さま。この雨脚の中、飛ぶのに失敗して窓にぶつかってしまったようなのです」
それはみすぼらしく濡れて痩せ、到底鳥とは判別出来ない体だった。
地に落ちた所をリヒテンシュタインに拾われたのだろう、鳥にはあるまじき泥に汚れた様にスイスはこの天候と重ねて、目の前の少女の幻を思い浮かべていた。
丁度、先刻のリヒテンシュタインと同様に。
スイスは一つ咳払いをすると、険しい眼差しで鳥の様子を窺った。
「……死んではいないようだな。脳震盪か? まあいい、リヒテンシュタイン。早く屋敷へ帰ろう、本当に風邪をひいてしまう」
「あ、あの……お兄さま…っ」
リヒテンシュタインは切なげに、傷が痛むような表情で手の中の鳥をそっと握りしめ胸に抱いた。
そのまま翡翠色の潤んだ瞳で上目づかいで見つめられ、スイスは頬を朱に染めながら愛しい妹の本音を速やかに察知してしまう。
時に彼女の双眸は銃より優秀で凶悪な武器になるのだから、困ったものだ。
「野鳥には見えん。恐らく飼い主が居るはずだ。……元気になるまでなら、良いのである」
ドギマギと告げられた兄の言葉にリヒテンシュタインの顔がひまわりのようにほころんだ。
びしょ濡れの姿でありがとうお兄さま、とはしゃぐリヒテンシュタインの姿に、スイスは嬉しいような悩ましいような心情で苦笑した。
初めて会ったあの雨の日、彼女は痛ましく痩せ細ったみすぼらしい鳥だった。
くすんでほつれたみつあみは、痛手を負って飛べないカナリアのようで。
今では彼女は美しく耳に心地よい声で、お兄さまと囀る。
――この蒼い鳥も、元気に飛び立てればよいのだが。

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